特別定額給付金についての手記

新型コロナウイルス感染症緊急対策として行われた「特別定額給付金」事業。
この事務に携わった全国の自治体職員、総務省職員は非常に苦戦したと思う。何がどうなってこんな事態になってしまったのか、手記として残しておこうと思う。

1 時系列のまとめ

・4月上旬
「生活支援臨時給付金」という、収入が減少した世帯に対して30万円を給付する事業として発足した。詳細な日付はメモを忘れてしまったが、私が担当者として動き出したのが4月6日~10日の週だったので、その時期には30万円の給付金が発表されていた。

・4月16日
総務省による「生活支援臨時給付金」自治体向け中継説明会が行われた。
しかし、その夜に一部報道で「一律10万円給付金」に方針転換すると発表があった。

・4月20日
総務省に特別定額給付金実施本部が設置され、正式に一律10万円の給付金が決定する。

・4月24日~4月30日
DV等の連絡調整期間

・4月30日
国の補正予算が成立。正式に予算執行ができるようになる。

・5月1日
最速の自治体でオンライン申請が開始

・給付率の推移(6月21日時点)
6月 5日 30.2%
6月10日 38.5%
6月12日 46.8%
6月17日 54.5%

2 噴出する問題点

(1)個人に対して給付すべきという意見が相次ぐ
家庭にはそれぞれ問題があり、世帯主ではなく個人に給付しなければ行き渡らないという意見が相次ぐ。
この流れは申請が開始されるまで続いた。

(2)多数の自治体で給付金の誤給付や二重給付が相次ぐ
福島県天栄村(375世帯1,162人)
大阪府寝屋川市(993世帯2,196人)
この他にも少額の誤給付や二重給付の報道が相次いでいる。

(3)給付金絡みの逮捕者の発生
・京都で親族の住民票を勝手に移動し給付金を詐取しようとした疑いで詐欺未遂
・大阪で給付金に便乗してキャッシュカードを騙し取られる詐欺事件
・福岡、埼玉、横浜で役所職員に暴力等で公務執行妨害
ただ、推定無罪の原則があるので、量刑が確定するまではこの項目については触れるべきではない。

3 給付金の問題点

以前に特別定額給付金の問題点として数ツイートにまとめた。以下はその内容である。

(1)スケジュールが異常
全国民一律10万円給付が表に出てきたのが4月16日。生活支援臨時給付金(30万円)の地方自治体向け説明会を行ったその日の夜に報道があり、方針が急転換したことが分かった。自治体もシステムベンダーも30万円でスケジュールを組んでいたので、2週間近くを丸々無駄にした。
にも関わらず、給付時期は「早ければ5月中」と自治体の都合を無視した形で国の発表があった。システム開発や申請書の印刷だけでなく、DVや虐待の情報共有もしなければならない。
DVや虐待は都道府県をまたぐため、情報のやり取りは国が手順を作らなければならない。4月24日からの申出期間に対し、情報共有の手順が示されたのは1〜2日前だったと記憶している。ミスがあってはならない情報の準備期間にしては短すぎる。
4月27日を基準日にしたせいで、転入出管理の工程が非常に面倒なものになった。転出元の自治体への転出届の「届出日」と「転出予定日」、転入先への転入届の「届出日」と「転入日」をチェックしなければならず、住基情報だけではどちらの自治体で支払うべきか不明な方が発生し、そのたびに転出届や転入届を確認せねばならなくなった。

当初の動き出しから2週間経って急な方針転換をされたため現場は大混乱に陥った。対象者要件の確認が簡単になった一方、給付のためのシステムがない、対象者が数倍に膨れ上がった。
厄介だったのが転入出や死亡者の関係で、システムベンダーも国と直接協議していただろうが対象者の解釈が自治体側とベンダー側で一致しないこともあり、その都度国の通知を読み直して正しい方向にしてやらなければならなかった。神戸市の誤給付はこのあたりの関係のミスで起こったものと考えられる。

余談であるが、対象者の抽出作業をしているときにクレーム電話で「自分なら数時間でエクセルのマクロ使って申請書作れるよ。お前ら遅すぎるんだよ」というものがあった。転入出、死亡者、DV等配慮が必要な人の情報連携、それらをすべて加味した上で数時間で申請書の印刷準備ができるものならやってもらいたいものである。

(2)オンライン申請のフォームがぐちゃぐちゃ
これはもう報道でもさんざん言われているけど、受理後の作業がまったく考えられていないシステムだった。マイナポータルが住基情報を持てないのは置いておくとして、口座入力の部分でもっと上手いことできたと思う。
オンライン申請のデータは金融機関コードと支店コードを持っていない。しかし、実際に振込に使うのは金融機関の名称ではなくコードの方。金融機関コードをデータとして持たせた上、口座入力の入力規則を厳格化して、桁数が足りない場合や半角カナじゃない場合に申請できないようにすべきだった。ついでに郵便局の口座は記号じゃなくてゆうちょ銀行にした場合の番号を入力させるべき。

かなり早い段階から総務省は「世帯主と人数が合っていれば個々の世帯員の氏名まではチェックしなくていい」と言っていたので、口座のところで確認作業が減るような工夫が欲しかった。

オンライン申請についての問題点は様々なところで論議されているので省くが、ひと言で例えるなら「おとうさんスイッチ」(ピタゴラスイッチより)だなと思った。見てくれはオンラインで手間なく申請できると謳っておきながら、実際は人力で背後のシステムを動かしている。これも番号法システム開発の時間のなさからこのようになってしまったのだろうなというのは推測できる。
いくつかの自治体でオンライン申請を中止しているが、自分のところの自治体は、オンライン申請の絶対数が少ないという点はあるが特に問題は起きていない。口座振込のための給付システムとの連携が十分に図れる時間があればそれなりに結果を出したのではないだろうか。

(3)オンラインと紙で申請期間を分けなかった
自治体の担当者が何人就くかはそれぞれでしょうが、限られた人員で申請書の作成作業をしながらオンラインの申請内容をチェックするのは、かなりの負担。申請書の作成は業者に投げられる十分な猶予があれば、オンラインのチェックもここまで混乱しなかったのでは。
ただでさえ少ない自治体職員で給付事務を行うのに、オンラインのチェック、申請書作成の指揮と、どちらもボリュームが大きいのにまったく違う方向性の仕事を一度にやらなければならないのは、マンパワー不足。

(4)住民からの心無い苦情・罵倒
過激な例になると、上記に挙げた逮捕者のようになるが、それに至らないにしても全国の地方自治体の職員はひどいクレームに晒されている。貧すれば鈍するという諺のように、本当に毎日毎日毎日毎日これでもかというほどクレーム電話がかかってくる。
その電話がどれだけの作業の邪魔になっているかという観点はなく、言えば早くなるだろうとでも思っているのか、毎日、日によっては1日に数回電話をかけてくる。とある方のツイートを拝見すると、給付金チームの3分の1が退職や休職で離脱したとか。

電話をしてくる人はダウンロードで申請書を出せだの、マイナンバーカードがなくてもオンラインで申請できるようにしろだの、好きなことを言ってくるが、全部の要望に対応できるほど自治体に余力はない。有り体に言えば「選択と集中」で各自治体が何を優先すべきか、どのくらい力を入れられるかによって方針が決まっていった。どの自治体も限られた資源の中で最善を尽くしている。今回の件であれはダメだこれはダメだというのであれば、同じ考えの人を集めて「ダメなことができるようになるよう、金を集めたり人を集めたりできる人」を議員としてを送り込んだり、首長として送り込んだりすればいい。あなたの1票は飾りですか?

ではどうすれば良かったのか

そもそも国が助けるべきは個人なのか企業なのか

chikirin.hatenablog.com

日本には日本の歴史があり、今の現代社会が「国は企業の面倒を見る、企業は個人の面倒を見る」という前提のもとに成り立っていたと考えると、国から個人(厳密に言えば世帯主)への給付が遅くなるのも当然。国民としてどっちの方式にが良いのか、今一度考えるべきではないかと。
個人的には日本的な「何かに属しているマインド」からの脱却は難しいと思う。ただ属する「なにか」は変遷していくと思う。行政と関わりがある人を見ていると「個人が個人として個人を主張する」っていうのは、世間一般が考えるよりハードなのかもしれない。属する「なにか」が増えていって、それぞれが国→なにか→個人のチャネルを持てるようになっていったらなぁと思う。

現実的には

今後給付金みたいな事業をやるときは、システム面での準備がある程度整うまでは発表すべきではないと思う。全国的な誤給付・二重給付の様子からして、明らかにシステム面での準備不足が招いた結果だと見える。似たような事業として消費税対策の「臨時福祉給付金」があった。これは非課税者が対象となっていてボリュームは全世帯の1割程度と思われるが、たったそれだけの対象者のものでさえ準備期間は数ヶ月あった。今回のように 発表→来月から給付開始しろ なんていう無茶なスケジュール組みはされていない。
本当に生活に困っている人に向けては「緊急小口資金の特例貸付」等の既存制度の拡張を利用してもらった方が圧倒的に早い。そこに至らない人は当面の生活資金は貯蓄から出してもらい、その間に支援制度を設計するようなスケジュールが当たり前になるべき。

マイナンバーと口座を紐付けるという話も出てきているようだが、正直それなりのボリュームの人が「口座とマイナンバーを管理できない」と感じる。根拠はないけど全人口の1割から2割くらいの人は管理できずに紐付けても意味無しになってしまうと思う。それをケアする方法は現状思いつかない。

思いつきに過ぎないが、郵便番号ごとに抽選を行って「当選おめでとうございます。この郵便番号は1番最初の給付になりました。○月○日~△日に申請してください。申請しないと最後尾に後回しです。」とか。

う~ん、いい方法は思いつかない。
なにか良い方法があったら教えてください。

余談

10万円の給付は行政処分じゃなくて贈与にあたるって見解がどこかにあったはず。そう考えると申請なしに一方的にお金を送りつけるのはどの法解釈に基づいてやればいいんだろ?

総務省は「事業実施にあたって地方公共団体で要綱を制定する必要は必ずしもないと考える。だから要綱例は出さない」って言ってたけど、法令受託事務じゃないし、法的根拠もないし、地方自治体の「自治事務」として行う以上支払根拠として要綱は作成すべきじゃないかな。要綱は必要ないって国が言うのは自治事務への過剰な口出しじゃないのかな。

税金を取るときは早くて給付するときは遅いという苦情のために、「○○税の算出データを作成しました」とか「○○税の納税通知の業者の入札を行いました」「○○税の納税通知の発送がまもなくです」とかプレスリリース出せば満足するのかな。税を徴収するのに何ヶ月準備かけてると思っているんだろうね。

マイナンバーと口座の紐付けをするとして、成年後見とか未成年者とか口座を持てない人とかの対応どうするんだろ。口座を持てない人は居住自治体に連絡がいって、「この人口座ないからよろしく」だよなぁ。

近所の人と比較して「あそこは届いたのにウチはまだ!」って問い合わせが尽きないんだけど、どうして人は人と比較してしまうんだろうね。

公務員でもマーケット感覚は求められている

「おちゃらけ社会派ブロガー」である「ちきりん」さんの新刊を読みました。

普段のTwitterやブログを読んでいれば伝わってくることを、改めて文字に起こしたというような感覚でした。

マーケット感覚とは何ぞや、マーケット感覚を鍛えるためには?という内容については著書を読んでいただくとして、自分の環境においてどんなマーケット感覚が必要になるのか、という事について思いをめぐらしてみてはいかがでしょうか。

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一般的に公務員とは「市場から1番遠い」と言われます。ある側面では、それは正しいことです。税金という制度で国であれば国民から、県であれば県民から、市であれば市民からお金を集め、公共投資や人件費に充てています。

誰か(最終的な決定者は国民であり県民や市民です。)が決めた制度通りにお金を集めるという点では、マーケット感覚はないのかもしれません。


その実、公務員には意外とマーケット感覚が必要な場合があります。
簡単なもので言えば以下のようなものがあります。マーケット感覚を鍛える5つの方法に当てはめるとこんな感じでしょうか。

1.プライシング能力
公共施設の利用料
市が行う講座等の参加費

2.インセンティブシステム
行事やお祭りの協賛金集め
人口増や流出減のために行うべきこと
気持よく税金を払ってくれるような窓口対応

3.市場に評価される方法を学ぶ
ふるさと納税の中身


4.失敗と成功の関係 については、役所組織、それも中枢より末端にいくほど「失敗をするな」「失敗したらレールから落ちるぞ」と言われるので、学べる機会は乏しいのかもしれません。

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1.プライシング能力 について、役所全体で本当に下手だと思いますし、それゆえにこれからの伸びしろはかなり大きいものではないかと思っています。

自分のところでは、自治体が直接講座を行う場合、基本的に参加料は無料です。外郭団体が行う場合は少し料金を取っているようですが、それでも数百円程度です。

それにも関わらず、役所内で動員がかけられるような講座もあります。

「こういう講座を行いました。こういう教室を開きました。集まった人数は○○人です。」

こういった振り返りで終わって、次にどう繋げようという話がないんですね。そもそも動員ありきで企画が立ち上がる場合もあるため、先に繋げようがないものもあります。

公共施設の利用料に関しても、基本的には前例踏襲、何か話があると一言目が「近隣市の様子を調べておいて。」です。いやもちろん、タテヨコ比較は大事ですから近隣市の様子は調べなければなりませんよ。

思考の棚ではありませんが、近隣市を調べたところで、どういう結果を受けどんなアクションを起こすという事もなしにただ調べるだけ。他にも業務はてんこ盛りですから、こんなふわっとした指示は後回しにしがちです。


組織を変えるより自分が変わるほうが楽と言いますが、もーちょっと危機感を持った方がいいんじゃないの?ということですね。

でも、市場からもっとも遠いと言われている公務員でも意外と学ぶ点はあるんだな~と思いました。

不要な批判は無視していい

誰かが人と違う意見を言ったとき、新しいことを始めたとき、必ずと言っていいほど批判にさらされます。

それは、知名度のある人ほど多くなります。

中には、批判の多さに心を病んでしまう方もいます。

でも、個人であれば、法令に反しない行動や言動であれば、第三者の無責任な批判なんて、全部スルーすればいいんです。いちいち反応する必要もないし、心を病む必要もないし、ましてや見る必要すらありません。

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批判をする立場の人間はどんな人がいるでしょうか。

1 直接的に不利益を被る人
2 直接的な不利益はないが、意見などを間違いだと批判する人
3 批判されている対象を見つけると批判する人

意見ではなく、何か新しいサービスを展開している場合、1は細分化されます。

1-1 新サービスの利用等をしており使い勝手等に問題があると批判する人
1-2 新サービスに顧客を取られる立場にある人


ここで耳を傾けるべきは「1-1 新サービスの利用等をしており使い勝手等に問題があると批判する人」のみです。

あとの批判は反応する必要もなければ見る必要はありません。

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市場化された先進国では、各個人の判断が集団となって世論を形成します。何を選択しようと、何を発信しようと、法令に反していなければ何ら問題はありません。

1-1は商品の改良に役立てられる面がありますが、その他の批判については、耳を傾けたところでプラスに働くことはありません。

3は言わずもがなですが、2や1-2の立場の人は、批判し相手の地位を下げることで相対的に自分の立場を上に押し上げようとしているだけです。そんなものは放っておけばいいのです。どちらが正しいかは市場が判断してくれます。

そんなものを相手にしている暇があったら、自分の価値を上げることに注力しなさい。

体験談等を批判するとき、決して、「経験をしていない者は批判してはいけない。」と言いたいわけではありません。

批判することは一向に構いませんが、反応を貰えなかったからって「間違いを指摘しているから反応するべき」とか言ってはいけません。反応が戻ってこないのは、相手に送った意見が反応するに値しないからです。なぜ相手の言う意見や新サービスが駄目なのか、粛々と意見を書き続ければいいんです。

何かをやりたければ、まずは始めてみよう

何かを始めるとき、○○は自分に向いているかな、○○をすることは時間の無駄にならないかな、などと思うことは、誰しもあると思います。

人間は、新しいことを始めるとき、本能的に恐怖を感じてしまいます。

失敗したらどうしよう。時間と金の無駄になるかな。他にもやりたいことあるし。などと言いながら、結局は何もしない人が大勢います。

それは本能的に感じるものなので、恐怖を感じるなとは言いません。しかし、何も始めないと、自分に向いているもの、自分がやりたいと思えることか、それすらもわからないことになります。


百聞は一見にしかずという諺がありますが、本当にそのとおりだと思います。誰しも経験してきていることですが、小学生の時は中学校がどんなところか分からない。だけども、入学してしまえば「中学ってこんなところかー。」と思い、卒業するころには「いい学校だった」とか「こんな学校クソだ」という感想に変わっているんです。高校も然り。

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何かを始めたいと思うとき、プログラミング、外国語、音楽、絵画、物書き、ブログ、起業、いろいろあると思いますが、それについて調べているだけで、最初の一歩を踏み出さない限りは、何も生み出すことはできません。

何かを始めて、目標とするものと今の自分を比べて、足りないもの、身に付けなければならないもの、逆に捨てなければならないもの、そういったものを検証していく過程で、その道に進むことが自分にとって良いものか、良くないものかを肌感覚で感じ取っていくものです。

情報が溢れる現代だからこそ、何を始めるにしても初期投資を抑えることは、一昔前と比べたら非常に簡単になっています。

何かを言い訳にして何も行動を起こさないことは簡単ですが、そんな人は自分自身に広がりを持たせることができません。

何かをやりたいと言う人がいたら、伝えたいことはひとつです。

「まず始めよう」

それが、スタート地点に立つ唯一で最難度のことです。

奨学金減免制度の目指す方向はなに?

まず最初に、今回の記事は私自身の感覚で書いてあり、なんのデータの裏付けもないことを明記しておく。

http://sp.mainichi.jp/select/news/20141227k0000m010010000c.html

上記は、大学進学や就職を機に地方を離れ首都圏に出てくる若者が増えたために、地方就職者に奨学金の減免を行う制度を検討しているという記事です。

大学進学者、とりわけ、首都圏で働く頭脳労働者を想定しているものと思われます。

私自身、地方とはいかないまでも、首都圏まで1時間以上かかる田舎に暮らしています。

ひしひしと感じていますが、上記の記事のような制度を設けても、地元に残る層と首都圏に出ていく層は変わりません。そして、外から地方にやってくる者の数も変わらないでしょう。

それはなぜか。3つの理由があります。


1.個人のレベルでは、地方で働くよりも首都圏で働いた方がチャンスに恵まれている

まず、首都圏に一極集中している現状です。人の数、企業の数、GDP、娯楽、利便性、これらは総じて地方より首都圏の方が優れています。
変化に対応するためには、多様な人が集まり、柔軟に動いていかなければなりません。
首都圏は人種のるつぼとまではいかなくても、多くの人が集まり、相互作用を及ぼしあっています。
一部の能力のある人以外は、地方移住なんかより首都圏移住の方がチャンスを多く得られるでしょう。


2.地方でやっていける人は、そもそも奨学金の返済を理由に地方に残らない

現代において、稼げるための条件はなんでしょうか。情報やお金が集まる首都圏で仕事をするか、場所を厭わず働ける仕事をしているか、この2点に尽きると思います。
たしかに地方で健全に頑張っている企業もありますが、首都圏以外で大成している企業なんて絶対数が少ないじゃないですか。

能力のある人が、奨学金なんて目の前のお金のために、行動範囲を限定される地方就職なんてするわけないです。

この制度を使うのは、総じて地方活性化にはなんら寄与しない人だけでしょう。


3.なにより地方はつまらない
実際に暮らしていると分かりますが、地方はつまらない。果てしなくつまらない。

同年代の人間はいない。いるのは、いわゆるマイルドヤンキー層ばかり。イオン以外に行くあてがないから、イオンを楽しめないと行く場所がない。ネットで娯楽を得ると、首都圏(主に東京)で楽しんでいる人がたくさんいて羨ましい。
イベント事に顔を出しても、子連れの家族と老人ばかり。そんな状況です。


地方創生を願うなら、東京とは違う方向性で、東京に勝るコンテンツを作っていかなければならないのです。そのためには、税源を地方に移譲するなど、お金の流れを根本的に変えなければなりません。いつまでたっても国主導では、地方は衰退以外の道はないでしょう。

現代を勝ち抜いていける地方は、今の地方の形とはまったく異なったものになるでしょう。
それを受け入れるだけの土壌が、今の地方にあるか。私は地方の中で暮らしながら、いつも疑問に思います。

人生は後付けでしか語れない

「○○をすれば成功する」
「成功した人たちが行っているたった○個の法則」

このような本が売れたり、話題になったりすることがたびたびありますが、本のとおりに生活しても、決してその人の人生は変わりません。

人の数だけ人生があり、人の数だけ置かれている環境が違うのに、どうしてそれが自分に当てはまると考えるのでしょうか。

この手の本を読むことは確かに意味があります。自分の考え方、思考の方向性の整理ができますから。思考の棚卸しをして、自分の大事にしているもの、譲れないもの、軸となる部分を見つけるための参考にすればいいでしょう。

直感を信じる力: 人生のレールは自分で描こう

直感を信じる力: 人生のレールは自分で描こう

そういった意味で言えば、この本は「自分の半生を徹底的に結果論で分析した本」です。岩瀬さんのすごいところは、そうやって分析して、それを自分の思考軸として、形にできているところではないかな、と思います。


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肩書や経歴を見れば、どこか遠い存在に思える人でも、こうやって自分と向き合って、過去を顧みて、整理してみないと自分のあり方なんてわからないんです。自己啓発本を読んで、そこに何か自分を変えてくれるウルトラCがあると思っている人は、考え方を改めたほうがいいかもしれません。自分を変えられるのはいつだって自分。愚直に素直に目の前のことをやるだけしか、進むべき道はないんですね。もちろん、数年スパンで目標を立てることと、目の前のことを愚直に行うことは矛盾しないので、同時に行うに越したことはありません。

また、もうすぐ40を迎えるからこそ、ここまで書けたのではないかと思います。20代の自分が、ここまで深く自分のことを観察できるとは思えません。就活を行っている人たちも自己分析などをするようですが、一部の人を除き、圧倒的に経験が足りないので、そんなに意味はないんじゃないでしょう。

今は愚直に素直に目の前のことをやる時分。一段とばしのウルトラCを欲しがる気持ちも十分に分かるのですが、そんなものはありません。がんばれ!

越えられない学歴の壁の話

ちょっと前から、ネット上で学歴の壁の話が盛り上がっていました。

交わることのない学歴層 - 金田んち

上記のブログなんかが、綺麗にまとめられていて読みやすいんじゃないかと思います。低学歴の側から高学歴の世界が見えないように、高学歴の世界からは低学歴の世界は見えない。でも、世の中を動かす政治家などは高学歴の住人ばかりだから、底辺層の生活なんて見えないんじゃないか。そんな状況で舵取りしても、うまくいかないんじゃないか。ということです。

階層の固定化なども問題視されるようになって久しいですが、止めようのない現実なんじゃないかと思うんです。

人がどんな価値観を抱くようになるかという要素において、「環境」が一番重要です。ある喩え話に「日本人の両親から生まれた赤ん坊を、アメリカに連れて行ってアメリカ人に育てさせたら、その子は果たして日本人なのかアメリカ人なのか」というものがあります。

英語しか話せない、行動様式も、食習慣もアメリカ人、だけど見た目だけ日本人の人を、果たして日本人と呼べるのか。少なくとも私は呼べません。アメリカ人だと思います。
人は育った環境によって如何様にも変化する生き物です。

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では、日本の社会に置き換えて考えてみるとどうでしょうか。いわゆる「低学歴」と呼ばれる人たちは、高卒や中卒で働き始めています。「勉強は必要ない」「勉強をしなくてはいけない意味が分からない」そんなことを考え、また両親から言われ育ってきています。そして、自分が育てられたのと同じように、子供を育てます。

「勉強なんか必要ない」「勉強だけがすべてではない」

こうやって言われ育てられてきた子が、「勉強をしたい」「大学に行って学びたい」なんて考えるようになるようでしょうか。ならないでしょうね。
仮に「もっと勉強がしたい」なんて言おうものなら、親から「そんなの必要ない」と一蹴されるのが目に見えています。だって勉強をしなくても、今ここで自分は生きているのだから。


反対に「高学歴」に属する家庭はどうでしょうか。幼い頃から勉強は大事だと言われ続け、偏差値という競争の中に身を置き、大学を出るのは当たり前。大学のランクで自分のランクを位置づけする。そして良い会社に就職し、お金を稼いでいく。

そういった人たちは「上には上がいる」ことが身にしみて実感できているので、自分の子供にはいい思いをさせたい、楽な人生を送らせてあげたい。そんな気持ちから「勉強の大切さ」を、幼い頃から仕込んでいきます。

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共通するのは「どちらの世界の住人も、他の世界のことが見えていない」ということです。もちろん私も片方の世界のことは、見えていません。

しかし、両者の世界が交わったところで、果たしてそこに現在の世界を変える何かがあるのか、と問われたとき、「ある」と断言できないです。

田舎の小中学校では、ふたつの世界は、まだ分断されていません。その片鱗がちょこっと見えるだけでした。
その片鱗に少し触れただけにも関わらず、ふたつの世界の住人に分かれていく人たちは犬猿、水と油のような存在でした。決して交わらない。交わろうとしてもうまく馴染めず、何かがそれを阻む。

きっと、それは生後約10年という年月の間に、その人が生きてきた環境が、完全に根付いてしまっていたからなんだなと思います。そして、その差が埋められないものになってしまっていたのだと思います。

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学歴で分断される世界は決して交わらない。そしてそれは環境によって大きく左右される。これは動かしがたい現実ですが、そもそも生まれ持った「運」によってその後の人生が左右されてしまうのも、なんか酷な話だなと思います。

どっちの世界のほうが幸せなのかは分かりません。わずか2.3際の幼子が、自分でどちらが良いか決めることもできません。
生まれ持った「運」の要素によらず、人生を選択できるような環境を作ることができないか。

そんなことを思いました。