続・企業のブラック化は正しいのか

続・企業のブラック化は正しいのか

先日企業のブラック化は正しいのかという記事を書いた所、話題にした生島勘富氏から以下のようなツイートをいただきました。

まずはじめに、わざわざエゴサーチをしてまでこんな個人ブログを見つけて、Twitterで取り上げてくれたことに感謝の意を表します。普段は一桁しかないPV数が30まで増えました。この記事もエゴサーチで発見していただけることを祈っております。

さて、本題に入りますが、まず「生産性」の話から。

結論から述べますと、使用者と労働者の「生産性」の意味はまったく異なります。使用者の考える「生産性」とは、投入した経営資源に対するリターンの大きさのことであり、生島氏のおっしゃる「生産性」です。前回の記事で取り上げた「生産性」とは労働者の考える「生産性」であり、投入した資本(体力・気力)に対するリターン(仕事量)の大きさ、つまり同じ仕事量ならより簡単で楽な方法で行うということです。
前回の記事ではそこを名言していなかったのですが、そのために認識の違いを招いてしまったようです。

そしてこの「使用者の生産性」と「労働者の生産性」はまれにイコールになることもありますが、たいていは相反します。しかし、労働者は個人の生産性だけ考えていればいいだけですが、使用者は双方の生産性を考えなければなりません。2つ目のツイートとも関連するので後ほど述べます。

私は、ブラック企業の使用者は「使用者のための生産性」しか考えていないのではないのですか?まさかそれだけ考えていれば良いとでも思っているのですか?と言いたかったのです。


では何故使用者は異なる2つの生産性を考えなければならないのかという点について考えてみましょう。
※ここでは「業務時間内に遂行不可能な仕事量を押し付けてくるタイプのブラック企業」に限った話をします。「大量採用・大量解雇タイプのブラック企業」の話はひとまず置いておきます。

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まず『【みんなできている】わけですから、できないのは【社員として認められる生産性】に至ってない。』という記述について。これはとても危険な可能性を孕んでいます。
ヒントは経営学の教科書にかならず出てくる「テイラーの科学的管理法」にあります。

Wikipedia

簡単に説明すると、テイラーは「一日の標準労働」を決定して、未達の者には低賃金を、上回れば高賃金を渡すというように、賃金格差をつけることで、労働者の生産量を強制的に高めようとしました。ここで言う「一日の標準労働」とは、無駄のない速度で行われる一つ一つの動作の時間の合計です。ひとつの作業に対して優秀な成果を出す作業員を基準にしているため、全体で見ればかなり達成困難な仕事量を「標準労働」として定めていました。
これは『また、心理学や社会学の見地からの考察が無く、効率の追求を重視するあまりに労働者の人間性を軽視している事などの批判もあった。』という記述があるように、しばしば労使の対立の原因にもなります。


聡明な読者はお気づきだとは思いますが、これは標準労働のレベルを少し下げれば『【みんなできている】わけですから、できないのは【社員として認められる生産性】に至ってない。』と同じことなんですね。


テイラーが科学的管理法を編み出した20世紀初頭では、まだまだ仕事に削減しなければならない無駄がありました。それを使用者側が「こういう方法で無駄をなくせ」というように「労働者の生産性」に介入してきました。しかし現代はいろいろな告発から分かるように、使用者は具体的な改善案を出すことなく「根性でやれ」、労働者はサービス残業という目に見えない労働時間を込みでようやく割り当てられた仕事量をこなしています。これは20世紀初頭より酷い状況なのではないでしょうか?


最後に、Wikipedia内の脚注に『また、テイラーの指導を受けた工場の工員たちは科学的管理法に賛成であったという。』という一文があるように、結局は程度の問題なのではないかと思います。労使双方が納得し、社会的に害がなければそれでいいと思います。しかし現状は、労働者が悲鳴をあげている上に、自殺者やうつ病発症者を社会に生み出しています。それはやはりおかしいことだと思います。