すべてはゼロをイチにするところこから始まる

先日発売された堀江貴文氏の「ゼロ」を購入しました。

ゼロ

ゼロ


高校時代、部活の顧問に「何事にも正しいやり方がある。カネのために手段を選ばずやっているとホリエモン村上ファンドのようになるぞ。」と言われていました。当時は、堀江貴文さんが何故強制捜査を受けたのか、村上ファンドが何をしたのか、そんなことを何も理解しないまま「悪いことはダメなんだ」という程度にしか捉えていませんでしが、心のどこかで「一連の強制捜査の流れは何かがおかしい」と思っていました。

それから数年後、堀江さんの著書『君がオヤジになる前に』を読んで、「この人は合理的に動いてる。だけど、それを説明するプロセスをはしょってるから、誤解されるんじゃないか」と思っていたら、今回の著書の第0章で同じようなことが書かれていて驚いたものです。


さて、そんな驚きとともに始まったこの本ですが、自分にとっては再確認の部分が多く、一世を風靡したホリエモンも、結局は同じ人間、ただちょっとだけ人より考えを行動にする力があるんだな、と思いました。
例えば「勉強は大人を納得させるツール」というのも-東大に行けるほど能力は優れてはいませんが-自分も使っていました。学校の成績が落ちてきて「実力テストで100番以上に入らないと部活をやらせない」なんて脅迫された時は、死ぬ気で頑張って170位から90位台まで順位を上げましたし、家で勉強している姿を見せなくても、合格判定模試の点数が上がっていってるのを見せるだけで、親は何も口出しをしてきませんでした。

思えば、ゼロに書かれていることのいくつかは、生活の中で学んでいました。受験勉強で「今日はここまでやりきる」という自分ルールを作っては達成して、着実に成功体験を積み上げていったり、学校で自分の趣味が人に通じなかった時に、Twitterを使って新たな世界に飛び出してみたり、という成功体験の積み重ね。

仕事には「楽しい仕事」と「つまらない仕事」があるのではなく、「仕事を楽しくできるか否か」という考えのもと、いかにいまの仕事を面白くできるか常に思考していること。


自分自身は、堀江さんのように多岐にわたる事業を手がけているわけでもないし、Twitterでフォロワーが何万人もいるわけじゃない。外部から仕事の話を持ちかけられることもなければ、自分の名前で仕事をしているわけでもない。

それでも、閉塞感は、ない。

この場所で働き始めて半年強、おぼろげながらこの場所で自分ができること、やりたいことが見えてきました。そしてそれは、壁が大きくとてもワクワクすることです。今まさに、足し算の最中だから、閉塞感を感じたりしないのだと思います。

堀江さんのメルマガを読んでいると、本当に掛け算の答えを求める質問が多いです。ボリュームの割に読んだ気がしないのは、ここら辺が関係しているのかなと思います。それだけの人が掛け算を求めているのを目の当たりにすると、自分が足し算の域にいるということが、幸せなんじゃないかと思えます。ネガティブな思考がぐるぐる回るほど暇でもなく、体を壊すほど他者に使われているでもなく、自分で自分の24時間を作っていけてる。そんな自信が自分を前向きにさせているのだと思います。

やろうと思ったことをその瞬間からやり始める。いつまでもそんな人生であり続けたいと思える1冊でした。

地方自治は詰んでいる…?

現代の地方自治体の役割とはなんだろうか?

地方自治は民主主義の学校」という言葉があります。住民が住民同士で自分たちの地域のことを話し合い、決定していく姿を指して言われた言葉です。
自分たちの事を自分たちで話し合う。それが地方自治の原点です。


そもそも住民とはなんでしょうか?
その市町村に住所を有する者でしょうか?数年前には「行方不明高齢者事件」、いわゆる「戸籍上は生きていることになっているけど、実際に姿が確認できない高齢者」が数多く存在するという事例もありました。
一方で、転勤族と呼ばれる人たちは、若いうちから数年スパンで住居を転々とし、そのたびに違う場所の住民になります。

さらには、都市部における人口の集中、インターネットによる対面によらないコミュニケーション、オートロックマンションによる門前払いなど、「住民」を正確に把握することは、ますます難しくなっています。それでも自治体は「住民」に対して行政サービスを提供する義務があります。

いち地方公共団体で働いてみて分かったのが、「地域づくり」に積極的に参加するのは高齢者か子供連ればかりということです。人口動態と比べたらよく分かりますが、20代から30代前半、とくに子供を持たない人たちの参加率が極端に低いです。
もちろん、平日は仕事等あるでしょうが、土日のイベントも同じです。

時間の余っている高齢者、学校という地域と切っても切れない縁を持つ子供のコミュニティ、それらに属さない人たちは他のことに時間を使っています。そんな世代が地方自治に参加できるのは選挙のみということになりますが、投票率はどの自治体も低いです。

首長や議会は、選挙で得られた民主的正当性によって動くのだから、高齢者福祉、子供関連の政策が重点的に行われます。やや高齢者よりですね。国の政策を見ると顕著でわかりやすいかもしれません。地方は、場所にもよりますが、子供を持つ親の力が国に比べたら強いところもあると思います。この記事でも書いたように、選挙で力を持つ人たちの方へ重点課題は流れていきます。それが、行政の「その場しのぎ」策の数々につながっているところですね。

例えば、自分たちのところで言えば、比較的楽にできる「職員の給与削減」は毎月のようにお知らせがきます。しかし「税収を増やす施策」についてはまったくと言っていいほど声が上がりません。何故なら、給与削減は単発でできる施策ですが、税収を増やす施策は多岐にわたり、しばしば「福祉を手厚くする」ことと相反するからです。


人口構成のバランスが崩れていくのが分かっているのだから、現状維持をするためには今より稼げるようにならないといけないわけです。2055年まで現在のGDPを維持するだけでも、生産年齢人口の一人当たりGDPは1.8倍に増やさなければなりません。*1
1970年代から2012年までの40年の伸び率とだいたい同じですが、国債残高を含む財政状況を鑑みると、現実的な数字とは思えません。現状を維持するだけでもこれだけの労力が必要なのに、現場を取り巻く声は「身を切る改革をしよう」だけです。もちろんそれも必要ですが、根本の一番大事な部分が抜け落ちてしまっているのが、今の国の状況であり地方公共団体の姿なのではないでしょうか。

その地方公共団体の未来予想図を描き、それを鮮明に住民に伝えていく。そして共感を得て、協力していくように促す。それがこれからの首長に求められることではないでしょうか。大阪が二重行政解消のために大阪都構想を掲げるのは、ひとつの始まりであり、地方公共団体のあるべき姿を考える上で重要になることは間違いありません。橋下市長には賛否両論ですが、都構想について大阪市民は選んだ、堺市民は選ばなかった、その判断が未来でどう評価されるか、他の地方公共団体はどういう道を選んでいくのか、分水嶺はまさに今なんじゃないかと思います。

ネット時代の地方自治

ネット時代の地方自治

*1:国立社会保障・人口問題研究所推計より

職務専念義務について考えてみる

職務専念義務とは

国家公務員法第96条及び地方公務員法第30条では、公務員の服務の原則として「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当っては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」と規定される。さらに国家公務員法第101条第1項前段では、「職員は、法律又は命令の定める場合を除いては、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、政府がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない」、地方公務員法第35条では「職員は、法律又は条例に特別の定がある場合を除く外、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、当該地方公共団体がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない」とそれぞれ規定されており、勤務時間中の職務専念義務は明記されている。
また特別職公務員においても自衛隊法第60条では「隊員は、法令に別段の定がある場合を除き、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職務遂行のために用いなければならない」と規定され、勤務時間中の職務専念義務が明記されている。また、外務公務員法及び裁判所職員臨時措置法の国家公務員法を準用する規定により、外務職員及び裁判所職員にも職務専念義務が規定されている。
なお、法令または条例に特別な定めがある場合は、職務専念義務が免除されることがある(職務専念義務免除、=職専免又は職免)。

Wikipediaより抜粋


要するに、勤務時間中は仕事だけやれ!ってことですね。あ、ちなみに筆者は予約投稿したり代休の日に書いてるので、更新日時が平日の昼間でも職務専念義務には違反していませんよ。名誉のため…


やや旧聞に属する話ですが、大阪市の職員が外回りの帰り道に10分程度喫茶店に寄ったことにより処分を受けました。他にも、勤務時間中のTwitterへの投稿が見つかったり、職場のパソコンから業務に関係ないサイトを見たりして、摘発される例も多々あります。

そもそもこの法律通りに職務を行うことは可能なのでしょうか?

・勤務時間中は私用・私語を行わない
・決められた休憩時間以外はタバコやお茶休憩できない
・他所から頼まれた仕事でも、職責に寄らないものなら行ってはいけない

しかし現実は、一日に何度もタバコ休憩に行く人はいるし、自販機にお茶を買いに行って、他所で談笑をして帰ってくる人もいます。仕事に関係ない私語は飛び交っているし、むしろそれでメリハリをつけて集中力を保っています。まず、昼休憩1時間だけで一日の集中力を保て!なんて方が無茶ぶりだと思います。テレビゲームをするときは1時間やったら15分の休憩を~とか昔よく叫ばれていたように、長時間何かに集中し続けるっていうのは体に悪いという認識を持たねばなりませんね。
…という観点からか、タバコやお茶に関してはそれほど気にされません。大阪市の件はやや行き過ぎという意見が大半を占めているようです。

それでも、パソコンやインターネット関連の注意文は何度も何度もきます。所詮は程度の問題で、お茶もタバコもTwitterも、違いはないと思うんですけどね。(会社のPCで私用をするのはセキュリティやら通信ログやらの問題で若干アウトかもしれませんが)

これっておかしいですよね?

昭和56年に「大成観光事件」の判決において、以下の様な意見がありました。

労働者の職務専念義務を厳しく考えて、労働者は、肉体的であると精神的であるとを問わず、すべての活動力を職務に集中し、就業時間中職務以外のことに一切注意力を向けてはならないとすれば、労働者は、少なくとも就業時間中は使用者にいわば全人格的に従属することとなる。私は、職務専念義務といわれるのも、労働者が労働契約に基づきその職務を誠実に履行しなければならないという義務であって、この義務と何ら支障なく両立し、使用者の業務を具体的に阻害することのない行動は、必ずしも職務専念義務に違背するものではないと解する。そして職務専念義務に違背する行動にあたるかどうかは、使用者の業務や労働者の職務の性質・内容、当該行動の態様など諸般の事情を勘案して判断されることになる。

裁判官の補足意見ではありますが『職務専念義務といわれるのも、労働者が労働契約に基づきその職務を誠実に履行しなければならないという義務であって、~中略~、必ずしも職務専念義務に違背するものではないと解する。』という記述があります。


成すべき職務を達成している限り、タバコもお茶も、Twitterでさえも、決して問題行動ではないように思えます。しかし、権力も大衆も、ネットへの書き込みをここぞとばかりに職務専念義務違反だと祭り上げます。ネットでのアルバイト炎上事件と同じように、可視化されるようになったから騒がれているだけなのではないでしょうか。

時代の過渡期には、いつも新しいものが批判を受けます。何が目的で何が成すことで、それに対して何が問題なのか、もっと考えたほうがいいんじゃないかと思います。

ちきりんの『未来の働き方を考えよう』Social Book Readingに参加してみて

9月14日(土)にちきりんさん主催のソーシャルブックリーディング『未来の働き方を考えよう』に参加しました。参加したと言っても、Socialとある通り、Twitterの画面越しに他者の発言を見て、自分で発言してという感じです。

当日の様子は、ちきりんさんがブログにまとめてくださっているので、そちらを参照。(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130915)


さて、この会はあくまで「ちきりんさんの考えに一部でも共感する人の集まり」だと思います。それを差っ引いても、なかなかの数の人が"定年まで一つの仕事をやり続ける"ということに疑問を持っており、ある程度の年齢で働き方を大胆に転換したいと考えていました。

しかし、今でこそ"転換"をしている個人が増えてきましたが、まだまだ絶対数が少ないと思います。これだけの人数がいたら、たとえそれが労働者の中のほんの一部だとしても、影響力が出てきてもおかしくはないでしょうか?
でも、実際はそうではありません。働き方の"転換"の話は出てこないし、大多数の労働者が不満を持ちつつも同じ働き方を続けています。

私は「同じ考えの人が集まる場が少ない」と思います。そして、このソーシャルブックリーディング等が、そういった場になっていくと思います。


例えば、私は東京近郊の田舎に住んでおり、都心まで出るのに1時間~1時間半かかります。田舎の地方公務員なので、地元の繋がりが強いといえば聞こえがいいですが、とどのつまり昔ながらの考え方の人が多く、おそらく先日の参加者のような考え方を持つ人は非常に少数です。というか、思ってても口に出せません。

人口の絶対数が多い分、マイノリティはどうしても東京に集まりがちです。もしこのような考え方の人が集まるとしたら東京になります。しかし、平日に都内に出ることは、とても負担になります。1時間話すために往復3時間かけて行くようなものです。インターネットは移動時間を0にしてくれます。Twitter上の話だと、まだまだ一方的に喋るばかりになり、コミュニティとして大多数の人を捌くのは難しいかもしれません。でも、確実に、住む場所に関わりなく、意見交換ができるようになるというのは大きいです。


人は環境に左右されます。誰が言ったか忘れましたが、「進学校の生徒が有名大への進学率が高いのは教師の質がいいからではない。まわりの人間が上を目指そうと切磋琢磨しあうからだ。」という言葉があります。自身も地元では5本の指に入るであろう進学高校に通っていましたが、まさにその通りだと感じています。それと同じで、働き方を転換したいなら、既に働き方を転換した人やこれから働き方を転換しようと思っている人をそばに置くべきです。今回のソーシャルブックリーディングで従来の働き方に疑問を持つ人が集まったのは、ちきりんさんがそういう考え方をしており、それに共感した人が集まったからです。今後は、ちきりんさんを介さずとも、人が集まれるような場を作っていかなければ、いつまでたっても従来の働き方からの脱却は達成できません。

もちろん、すべての人が従来の一社従属の働き方を転換したいと考えている訳ではありません。むしろ一社で定年まで働きたいと思う人は多数派です。そのような人たちまで無理矢理巻き込むのではなく、自然発生的に働き方に対する考え方が似ている人が集まっていったらなと思います。



それを踏まえて、今の仕事を今までどおり繰り返すだけでは、非常にマズいという危機感を持ちました。いい面は確かにあります。同僚同士でギスギスした関係はなく、休日も出掛けたりと仲が良いです。でも、そこで止まってしまう。一緒に価値を生み出すために仕事をしているという感覚がない。
友人としては同僚に恵まれました。でもその一歩先に行ける人がいるのか、まだまだ仲間探しの段階。それが、内部にいるのか、外部に探しに行かなければいけないのか、たぶん自分の中では答えはもう見つかっています。

確かに僕等は戦争を戦争を知らない

確かに僕等は戦争を知らない

平成生まれの自分にとって、戦争というものは縁のないものだ。これまでもそうだし、これからもできれば無縁でいたい。

戦争は悲惨だ。二度と繰り返してはならない。

そう教えて育てられてきました。いや、そう教えられてきたと思わされていたという方が正しいかもしれない。


日本は侵略戦争をし、日中戦争、太平洋戦争を経て原爆を落とされて、ポツダム宣言を受け入れ、天皇が玉音放送を流し、戦争に負けた。歴史の教科書はそう言っているけれども、実際、当時の日本において、大衆世論はどんな感じであったとか、本土空襲が始まる前の銃後の人々の暮らしだとか、そういうものを、何も教わっていない。もちろん、学校の試験にはそんなものは出ない。だから学ぼうとしてこなかったし、学ぶ必要性すら感じてこなかった。

学校を卒業して、いろんな情報を見るようになって、「'あの戦争'に対する認識」に感じる違和感を、一冊の本によって、変えられたような気がします。


戦勝国が紡ぐ'あの戦争'、ヨーロッパで行われていた'あの戦争'、中国や韓国の'あの戦争'、それぞれ「'あの戦争'はこの国にこういうものをもたらした」というのが、国家の物語としてきちんと紡がれていた。国立の博物館として、どう残していくか、どう表現していくか。でも日本には、「国家の物語」はない。どの博物館に行っても最後は鑑賞者に問いが投げかけられて終わる。「未来を考えて行きましょう」と。


だから僕等は戦争を知らない。


中学2年生の夏を思い出す。夏休み直前、「平和を考える」という授業があった。担任が僕等に向かって問う。

「'あの戦争'についてどんな事を思いますか?」

クラスは静寂に包まれた。何も知らない、経験したことない、だから分からない。そんな空気が流れていた。しびれを切らした担任が指名して言わせていく。「分かりません」「特に何もありません」......自分が指された。「何もありません」

「お前ら!っざけんじゃねーぞ!!」「何もないってなんだよ!家に帰って祖父母に電話するなりして戦争について聞いてこい!!」


家に帰ってけだるい気持ちを抑えつつダイヤルを回す。祖父に繋がった。「戦争について訊きたい」と尋ねると、声のトーンが一段下がる。そして、戦後の復興についてポツポツ話してくれた。勤めていた会社の工場が、戦争で一気に軍需化したこと、あの夏は暑かったこと、海水を蒸発させて塩を作ったこと。どれもが教科書には載っていない話だった。でも同時にどこかで思う。『これは経験した人にしか分からないだろうなあ。いくら話を聞いたところで、'あの戦争'もあの夏も、表面上しか知ることはできないだろうなあ。』と。


翌日、それぞれが聞いた話を発表する。「…なので、戦争はいけないと思いました。」すべての人がそうまとめ、その度に担任が頷いていたのが印象的。でも当時の担任に訊きたい。「もし戦争を肯定する話が出てきたら、あなたはどうしたの?」



今思えば、自分が唯一聞いた「小さい記憶」がこの時の祖父の話かもしれない。戦場に行くこともなく、銃後の人間として暮らしてきた祖父の語る戦争。苦労話は印象的だとは思ったけど、悲惨だとは思わなかった。街はそこまで破壊されることもなく、親戚や知り合いも数人程度しか犠牲になっていない。戦後の前向きな話を中心にする祖父を見ていると、戦争で凄惨な目に遭うのは、どこか遠いところに住む誰かだけなのかもしれないとも思う。

そして、そんな話も伝聞でしか聞かない自分は、さらに遠いところにいると思う。

でも、それはなんら悪いことではないと、おもう。2001年の出来事も、最近よくニュースになっていることも、どこか遠い世界の話のような気がする。それが、平和の中で住んできた自分の価値観なのだと思う。たぶんこれはもう覆らないと思う。

今は2013年。1945年に生まれた人は68歳である。もはや戦後ではないどころか、戦争世代の孫達の時代である。国家として戦争を残してこなかった日本において、「平和を基準にした歴史観」をつくってもいい頃合いなんじゃないか。だって僕等は「平和」しか知らないんだから。中途半端な態度を取りつづけたから、今も呪縛から逃れられていないんじゃないだろうか。

そんなことを思った2013年・夏

誰も戦争を教えてくれなかった

誰も戦争を教えてくれなかった

選挙は金がかかるけれどもやり方は変えられない

7月21日に参議院議員通常選挙が行われました。今回の選挙は、初のネット選挙解禁により、一部では非常に盛り上がっていました。東京選挙区の山本太郎氏と鈴木寛氏の争いや、比例のわたなべ美樹氏などの話が多かったような気がします。

そういった政治家の評価については各方面で散々議論がなされていると思いますので、今回の記事では触れません。


今回は、仕事として投票所に赴き、感じたことをまとめようと思います。


まず、投票所にはどんな仕事があるかを見てみましょう。

・受付係
・名簿対照係
・投票用紙交付係
・投票管理者
・投票立会人
・庶務

ざっと書くとこんな感じです。では次は仕事の内容について。

・受付係
選挙人から入場整理券を預かりカウントする。集めた入場整理券は男女別に仕分け、後述の投票用紙交付係との照合しやすいようにしておく。

・名簿対照係
入場整理券に記載されている個人情報と選挙人名簿を照合し、本人確認を行う。投票所によっては電子化されているところもある。

・投票用紙交付係
選挙人に投票用紙を交付する。男女別にカウントする。ここで誤って2枚とか渡してしまうと次の日の新聞で(名前は載らないものの)有名になれる。

・投票管理者
投票所の総責任者。基本的には庶務係に実務は任せているところが多い。

・投票立会人
選挙が正しく行われているかを監視する。'見ること'が仕事のため、実務は一切なし。

・庶務
1時間に1回、地方公共団体選挙管理委員会に投票速報を伝える。他の者は持ち場を離れられないため、お茶やお茶うけを配る。お手洗い等、実務担当者が持ち場を離れなくてはいけないときに、一時的に持ち場担当に入る。記載台や候補者名簿に落書きがされていないか確認する。鉛筆を使う投票所なら定期的に鉛筆を削る。弁当の発注や選挙人の質問を受けたり、その他雑務をする。

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現在の投票の制度では、これらの人員は削減することはできず、投票所の忙しさに関わらず10人は配置されます。一日に訪れる投票者数は数百人から6000人程度。例えば神戸市(H23時点)なら、一番多い所で有権者数が12,666、投票率が60%なら約7500人。期日前投票・不在者投票者も考えると、当日に投票所へ来る人数は多くても6000~7000人前後になります。

一方で、一番有権者数が少ない投票所は168人。私は神戸市民ではないので実態は分かりませんが、上記の各仕事に従事する人間は確保しなければならないと思います。

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このシステムが「選挙は金がかかる」と言われる所以なんですね。法律で方法が決められてしまっているために、人数の過多に合わせて柔軟に人員配置を変えられないのです。体験してみれば尚理解出来ますが、選挙事務従事者は「何もしていない時間」が多いです。場所にもよりますが、午前6時から午後9時までの長時間に渡り投票所に拘束され、何もしない時間が多々あるけど、一度ミスでもしようものならその投票所を吊るしあげるかのごとくミスを報じる。


これが無駄以外のなんなんでしょうか?というのが私の考えです。


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人間が管理する以上、どんな選挙にもミスが出るのは当然なんですから、もっとやり方を試行錯誤してもいいと思うんですよね。

・ネットによる投票を導入
・上記と関連してコンビニ等で簡単に投票ができるようにする
・各投票所の時間帯別の人数を元に、複数の投票所で人員を共有する
・投票所システムをやめて、一定の期日を決め役所で一括して投票管理を行う。障害者や高齢者など移動が困難な人たちには、投票所を廃止して浮いた金でサポートを考える
・郵便による投票

などなど。特に投票所の入場券を郵便で送付しているのだから、郵便事故のリスクは既に受け入れているわけで、郵便による投票なんかすぐにでもできそうなんですけどね。


国民は政府に対して「無駄を削減しろ!」と声高に主張している訳ですから、経費を削減するためにある程度のリスクを受け入れる方向性も考えなければならないのでは?
公務員バッシングは今に始まったことではありませんが、そういう無限の要求が改革を阻害していることにも気づいてほしいものです。

参考:業務効率化だけでは残業はなくならない - 脱社畜ブログ


すこしまとまりがありませんが、リスクを受け入れつつ現在の選挙のシステムを変えた方が良いです。というところで選挙の話は終わりにしようと思います

働き方は時代に合わせて変わっていく

私が今、ぜひとも採用したい人:伊賀泰代×大竹智也【第1回】 | 語った | ジレンマ+
未来の働き方は、“学校”では学べない?: 伊賀泰代×大竹智也【第2回】 | 語った | ジレンマ+
高卒でも一流企業に入れますか?:伊賀泰代×大竹智也【最終回】 | 語った | ジレンマ+

大竹智也さんと伊賀泰代さんの対談記事です。

著書『採用基準』が10万部を超え、ジレンマ世代を中心に注目を集めている、キャリア形成コンサルタントの伊賀泰代さん。「就職活動の厳しさなどをことさらに取り上げ、“今の若い人は大変”と、時代にネガティブなレッテル貼りをすることに違和感があるんです」という伊賀さんと対談するのは、高校卒業後にフリーターを経て、現在はベンチャー企業の代表を務める大竹智也さんです。
 「元気ー?」「まさか、こういう場でお会いすることになるなんて(笑)」と、にぎやかに始まった2人のお話は、既存のしくみや価値観がジレンマ世代に与える影響から、未来の働き方のヒントまで、痛快きわまりなく展開していきます。

という説明とともに始まる記事。とてもワクワクしながら読みました。

お二人とも「いい学校を出ていい会社に就職して定年まで働く」という"理想の働き方"とされていたモデルに対して、また、それを理想とする若者に対して「今の時代、それはもう違う」と投げかけています。

私自身、今年の4月に、古き良き企業、市場から最も遠いといわれる業界に就職し、3ヶ月ほどを過ごしています。驚くべきは、ある程度の役職にいる人たちの共通認識が「新採用で入ってきた君たちは、今後40年ここで働くことになる」という前提なんですよね。
『40年もこういう仕事を続けれられるかっちゅーねん!』と心のなかで思いつつも、適当に言葉を濁す毎日でございます。

また、そういった人たちは「公務員という道を選んだ時点で転職は難しいぞ」「身につく専門性なんてたかが知れてるし、外で通用する力を付けようと思ったら並大抵の努力ではできないぞ」とも言ってくれます。これが過去30年くらいの事実であり、何も考えずに過ごせばそうなるであろう未来だということは想像に難くないと思います。

でも、この構造を変えていきたいと思うんですよね。

公務員ってだけで、税金で食ってるってだけで、何かあればすぐバッシングの対象になり、ある個人に都合が悪いことが起こると「お役所仕事だ」と罵声を浴びせられ、追い打ちをかけるように給与削減人員削減。入庁5年以内の若手職員でさえ「もう地方行政はヤバイぞ」と悲壮感を漂わせています。中にいても専門性は身につかないし、モチベーションも上がらなければ、身を守る方に傾いてもある意味仕方ありませんよね。私はこんな不合理な業界だからこそ、内外から変えられることってたくさんあると思いますし、変えられたら楽しいと思います。しかし、なかなか同じ考えの人は少なそうです。

ラッキーな事に、世の中では「デキる人」ほど公務員の優秀さを分かっていますし、労働に対して対価が割に合わない事を知っています。だから公務員に優秀な人は流れてこないんですけどね(笑)世の中を牽引する人の、決して少なくはない一定の割合の人が味方であるということは大きいと思います。
しかしアンラッキーなことに、民主主義の現代では一人一票です(一票の格差はとりあえず据え置きます)。公務員が特権階級だと勘違いした人は、必ず足を引っ張りにきます。最大の抵抗勢力ですね。ここの問題の解決方法は思いついてませんが、ここをどうにかできれば、構造を変えられるかもしれません。

話は逸れましたが、この業界で自分がやりたいことは、これですかね。

「もっと人を入れやすく・出やすく」「人が入りたくなるようなインセンティブを」

まだまだ具体的な形にはなりませんが、自分が仕事をしていくなかで、達成できるにしろできないにしろ、ある程度納得のいくとこまで具体的な進行ができた時が辞めどきなのかなと思います。


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でも採用面接のときに、授業だけきっちり出てましたっていう子と、バイトばっかりしていましたって子とを比べると、後者のほうが、圧倒的に採用したくさせる何かを持ってるんです。それはやっぱり、リアルな社会から学びを得ているからですよね。
 あと、私がとくに重要だと思ってるのは、お金を稼ぐという行為を体験することです。

ここの部分なんてまさにそうですが、一度もお金を稼いだことがないっていうのは確かにマズいと感じます。新卒で公務員になった身で何を言うかと感じる方もいるかもしれませんが、都市間での競争になる時代に、稼いだことがない人だけで構成される自治体がどうなるか、不安しかありません。最近40代で仕事を選びなおす、という主旨の本や記事をよく読みますが、そういった「市場で磨かれ脂が乗った人たち」を呼び込むという風土がない点は、早急に改善すべきところですね。

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上記の「人を入れやすく・出やすく」というところに通じるのですが

いろんな仕事を経験して、いいものを選ぶ力を身につける。いいものを選ぶことができる、というのは、もう、ひとつの能力だと思うんですね。

という、"能力を形成する土壌としての転職"というものが、もっと広く浸透して欲しいというところがあります。私は、同じ仕事を続ける期間は長くて5年強と考えています。それ以上いたらダレてくるし、張り合いを見つけるのも難しくなってくると思います。
もちろん、それが全てだと言うつもりはまったくありません。各々自分にあったサイクルで仕事をすればいいだけのことです。ただ、自分と違う選択をした人がいたからって、それを否定することだけはやめろと言いたいですね。



長くなりましたが最後に。

世の先人たちが言うには、曰く「逆説的になるが、そういうことを達成しようとしたら、目の前の仕事に全力で取り組むしかない」と。
そんなわけで、明日も出社して数ある仕事を全力で取り組もうと思う所存でございます。